デモと暴力

杉田水脈議員(早く「元」がついてほしい)の発言が話題を呼んでいる。

いくらかの論点はあるものの、彼女の発言について、私自身は「子供を産む能力を生産性」と呼んだこと自体には(政治家としての言葉の選び方が浅慮だった点を除けば)まぁそこまで問題視されるほどのことでもなかったかなとは思う。

彼女(や、その周辺の人物)がどこまで理解しているかは不明だが、彼女の発言の大きな問題点は「生産性によって国家からの支援の程度を決める」という考えであり、「生産性」という単語自体はそれに比べれば大した問題ではない(事実、「出生率」という形で「どれだけ子供を産めるか」は指標化されており、指標化自体は悪いことではない(言葉のチョイスが致命的に馬鹿だとは思うが))

さて、この問題は発言者当人の予想を大きく超えて自民党本部前でデモが行われるまでに拡大した。

デモのニュースを聞いた時、私は「自民党本部の人間が寝られなくなるぐらい騒いだらいい」という感想を持った。

こういったとき、頻繁に発生する言論として、「デモの参加者がこんな暴力をふるった」といったものや、私の先の感想に対して「あなたは暴力を肯定するんですか?」といった形での反論だ(私はネット社会では無名な人間なのでこういった反論を受けたことはないが、そういったやり取りが発生しているのはたびたび視認する)。

 

今回は、この件について考えてみる。

 

 

さて、先の私の感想に同意していただいている方々に対しては特にいうことはないが、そうでない方もいるかとは思う。

そこで、そうでない方々は以下の質問について考えてほしい。

 

・警察は人を逮捕したり、拘束したりする。これについてどう考えるか

1:この警察の行為は暴力か?

2:この警察の行為は許される行為か?

 

上記設問の2について「NO」と答えた方に対するアンサーは、この記事内ではとても書ききれないので、「YES」と答えた方に対してアンサーを書くこととする。

 

さて、2に「YES」と答えた方の中では1の答えについてはYES/NOが分かれると思う。

1も2も「YES」と答えた人は「許される暴力もある」という考えを持っているといえるだろう。

一方で、1は「NO」で2は「YES」と考えた人の考えはどのようなものなのだろうか。

これはそれほど難しい問題ではなく「警察組織は実力を行使している」と考えればよい。

つまり、1は「NO」で2は「YES」と考えた人の考えは

「許されざる実力を暴力と定義する。そして、警察の行為は許された実力の行使である」という考えと推察するのが非常にシンプルなとらえ方であろう。

 

さて、これらのことから2の問いに「YES」と答えた人と「NO」と答えた人に共通する見解を抽出すれば「実力の行使は許される場合がある」ということだろう。(実力の行使が否定される場合は必ず何らかの留保が付くともいえる)

 

ここまでくれば、デモについて「デモ中に参加者が行使する実力は許容されるものか」という問いに落とし込むことができる。

 

そもそも、デモが何に対して行われるかというと、権力(その中でも、特に公権力)に対して行われるものである。

この時において、デモの参加者の中心となる人がどういった人かを見ると、「少数派」であり「(大きな)権力を保持しないもの」となる。

なぜなら、多数派であるならば選挙によって是正することができるし、十分大きな権力を保持しているのであればその権力を持って自身の望むように公権力に影響を及ぼすことができるため、デモを行う必要がないからだ(状況的には国民の多数派が権力をもつt公的な組織(特に、立法府)の構成員の半数を確保できなかったがためにデモを行う必要が発生することは認めるが、通常そういった状況であれば自然と問題が解されることが多い)。

 

グダグダと書いてしまったが、要するにデモを行うのはそのマターにおける「弱者」が中心であるということとなる。

さて、弱者が公権力に対して何かを要求するとき、そのアプローチとしていくつかの方法が考えられる。

最も平和的な方法は「賛同者を集める」ということだ。ただ、これは「選挙権」という権力を獲得する争いであり、この方法によって多数派となることができるのであれば「デモを行う必要性はない」。

つまり、「選挙によって国会の構成員を変えて問題を解決しましょう」ということになる。

この手法がとれるなら、まぁそれでもいいかとは思う。

しかし、現実として、衆議院は4年、参議院は6年の任期であり、かつ任期の間にいくつもの法案に関して各議員が賛否を表明する以上(また、政党政治である以上)はこの手法によって多くの「弱者(および、その集団)」の救済が可能とはとても思えない。

 

したがって、デモの役割は「権力の奪還(ようは、選挙によって自分たちの主張を実施してくれる政府を選出すること) では不可能な場合における方法」と言えるだろう。

で、あるならば、当然にデモそのものとその参加者は「権力を持たない弱者」であるわけだから、彼らが何かしらの要求を通すとした場合に彼らのよりどころは「実力」以外にあり得ないこととなる。

もっと言ってしまえば、「実力を行使する」ことしか選択肢として残されていないから「デモを行う」ということになる。

デモというのは、本質的に実力性を含んでいるのだ。

 

ここまで書いて、ようやく以下の点に着地できた

・許される実力があること

・デモとは本質的に実力を含んでいること(これによって「許される実力はあるが、デモで実力を行使することは不適切」という論は否定される)

 

最後に残った問題は「弱者が強者に対して行う実力は許容されるか」という問題となる。

これが解決されれば

「デモは実力を含んでおり、その実力は弱者から強者に向かうものである。そして、弱者から強者へ向かう実力が許容されている以上デモが含む実力は許容される」ということとなる。

 

ただ、これについては、「抵抗権」という形で先人たちが遺してくれたものがある。今更私がうだうだ言うのも野暮だと思うので、ここで終わりとしておこう。