時代に取り残される

大阪に引っ越し、それなりの期間がたった

関東では放送されていなかった「そこまで言って委員会」をみてみたが、これがまぁひどかった

 

私自身は元々関西の人間で、学生時代にはたまに「そこまで言って委員会」を見ていたが、その時期と比べるとずいぶんとうんざりげんなりするような憂鬱な気分になってしまう。

 

過去を美化するわけではないが、私が学生時代(中学生ぐらい)のころはまだこの番組については視聴に耐えられる部分があった。

出演しているおっさんたちは時代に取り残されていることを自覚しつつ、そこからのもがきと、自嘲を含んだ部分があったとは思う。

 

たかじんがまだ存命だったころ、彼はたびたび「この番組を東京でも流したいという打診が来るが、俺は東京が嫌いだから断っている」と言っていた。

今のこの番組は(約10年ぶりぐらいにたった1回見ただけで断ずるのもどうかと思うが)東京で流せないのは確かだが、理由が違っているだろうと思う。

原因を言ってしまえば「多くの耳目にさらされるものにはそれなりのハードルが用意される」ということである。

それは芸術性であったり、公平性であったり、まぁいろいろな物差しはあるものの、凡そ正/聖とされる部分を含んだ指標というハードルである。

 

この番組は、私が指摘するまでもなく多くの人たちが苦言を呈している番組であるから、まぁいちいちは言わないが・・・・

で、まぁそれだけなら私自身も活字に起こすほどでもなく自分の頭蓋骨のせいぜい2000ml以下の体積のなかのこととして処理していたであろう。

 

ただ、この番組をみて考えを逡巡させていた時に「時代」というワードが来た時に何となくではあるがそこに自分がとらえられてしまった感覚があった。

私自身、いくつかの思想/信条がある。26歳であれば浅慮な思想部分もあるとは思うが、まぁそれは年齢相応ということで見逃すこととしよう。

問題は、世間の潮流に対してそれが合致しているかという点で、例えばセクハラの問題であったり、差別の問題であったり、まぁいろいろな思想というものについて「原理的には過去から現在に至るまでに誤った認識だとされてはいたものの、世間一般においてその認識を持つ人間が大勢を占めていたために、その思想を保有していることが何ら咎められなかった」というものが多々あるという現実である。

 

過去を振り返った時に、例えば女性に対する接し方であったり、外国の方々に対する接し方が、現在のMeToo運動や反差別運動といったの審判を受けた時に到底その審判に耐えられるとは思えないなと感じる行動があったという点は素直に認めなければならないなとおもう。申し訳ないという気持ちと、そこに押しつぶされそうな感覚はなかなかぬぐえない。

 

このような感覚を覚えるのは、自分自身の思想というものが世間の潮流に対して敏感でなくなってきてしまったために、意識的に自身の思想と世間の潮流の合致を試みた時に、「自然体的に思想を世間の潮流にマッチングさせる能力が低下した」ということによって落差が大きくなってしまったのだろうと考える。

 

社会で定義されている正義だとか、公平さ、公正さといったものが「真に正義であり、公平であり、公正である」と、いうわけではないのであるということに対してあまりにも無思慮で無自覚な部分があったことは間違いない。

ポジティブに考えれば、社会のグレーな部分に対して甘えてしまうという点が自分自身の脆弱さであると強烈に自覚できたという点については糧とすることとしよう。

悔恨の念を前に自身が押しつぶされないようにしながらも、正義とか、公正さというものを自身の身体に取り込もうとすることが、いかに難しいかということを如実に実感したのであった。