差別が先か、教育が先か

イッタランドでこんなツイートが目に入った

 

この人だけをやり玉に挙げるというわけではないのだが、まぁ運が悪かったとでも思ってもらえたらと思う。

 

話を戻して、正直なところ21世紀になってから15年以上の年月が経つというのにいまだにこういった考えがある程度の支持(このツイートへのRTとfavすべてが賛同の意ではないにせよ、リプライツリーなどを見る限りでは相当割合の人間が賛同の意味で反応していると言えるだろう)を集めていることに教育の敗北を感じざるを得ないのだが、そうも言っていられないので、なぜこのような考えが誤りなのかを書きたいと思う。

 

第一に、「教育を行わなければ差別は風化するか」という問題がある。ハッキリ言ってしまえば、これは歴史的事実が明確に否定している。

差別が治世システムの中に明確に組み込まれ、公的/事実的に容認されていた時代において、その教育(=何かしらの差別。とくに特定の地域や職業あるいはその組み合わせに対する部落差別の伝播)が明確に行われていなかったにもかかわらず、今日にわたってさえいまだにそれらの差別が残っている。

彼らの唱える「差別教育による差別の解消の妨げ」論を大いに譲るとしても、同和対策事業特別措置法の成立前後に端を発する同和教育(この語が現代において問題を含んでいることは承知の上で、当時の語を用いる)が開始される段階において(つまり、

彼らの主張する「差別の教育が無かった時代」)も連綿と部落差別が続いてきたことを踏まえれば、このような主張は一笑に付されるものだと言えるだろう。

 

第二に、「差別は自然発生しないか?」という問いへの解を考える必要がある。

ここで、差別の原因について「自然発生説」と「人為発生説」を考えてみることとする。

もし、「差別が自然発生するもの」であるならば、彼らの主張する「教育を行わなければ差別は生じない」という主張は誤りだと断ずることができるだろう。

一方で「人為発生説」が正であるならば彼らの主張する内容にも一定の理があるように感ずることが出来る。

しかし、ここで注意しなければならないのは、この世の中に存在する(あるいは存在した)差別が自然発生したものと人為的に発生したものが混在する場合である。

もし、混在しているのであれば、それはすなわち「教育を行わなければ差別は生じない」という主張は誤りとなる(ただし、「教育を行わなければ差別は減少する」という点を否定できるものではない。「減少する」という主張自体も誤りではあるが、混在しているということのみから明確にそれを否定する論理の構築は難しいという意味。)

為政者にとって都合のいい形となるように作られた差別と言うものがこの世に存在している(あるいは存在していた)という点については否定はしないが、例えば世界中の広範な領域で「女性差別」というものが蔓延している/していたという事実を踏まえれば、それらの地域広範にわたって同一の政治的実力が支配していた史実が無いことと合わせて、自然的に発生する差別というものが存在している事を認めることが出きる。

 

上記2点を取ってみるだけでも

同和教育の無い時代にも差別は受け継がれていた

・差別は自然発生する

という部分から彼らの主張は明確に否定される。

 

ここからは蛇足部分ともいえるが、そもそも、なぜ差別あるいは差別的感情が発生するのかというと、それは人間の心の弱さに起因している。

他者への理解という点に対する恐怖/億劫/面倒くささと言った人間の心にある負の部分(負の部分全てを否定するわけではない。単にこれらの感情に起因しているというだけである)が差別と言うものを生み出し、そして固定化していく。

差別の克服/解消/解放というのは人間が本質的に持つ弱さとの向き合いであり、その向き合いを否定し、なくしてしまった場合、また差別が生まれてしまうことは容易に想像がつく。

 

普段から声を大にして言いたいことではあるのだが、

人間は文明の獲得とともに、「感情によって導いた結論」からは一定の距離を置くことに挑み続けているのであって、「感情を尊重しつつも、それが正しいのかどうかを問い続ける」ということを放棄してはならない。

 

少し話がそれるが、死刑賛成派の言う「でも、家族を殺されたら殺したくなるでしょ」という言に近しいものがあると思う。

「そのような感情になることは認めるが、そのような感情になることと実際にそのことを容認するのには大きな隔たりがある」

という表現にも代えることが出来る。

 

差別だって「でも、○○という人間は差別していいでしょ」という自然発生的な、もっというと当時の人間の「自然発生的な感情」に起因しているものなのだ。

当時はそれが「正常な感情」だったかもしれない。そして、過去には「感情に従って行動すること」が容認されていたのかもしれない。

しかし、その「正常な感情」に沿って「行動した結果」が差別につながっているのである。

 

差別が残る社会とは、感情と理性とを分離できていない社会であり、はっきり言って未熟な社会以外の何物でもない。文明を得ることを決め、文明を得ることを希求している

我々は現状の社会が未熟であることに対して自覚と恥を感じなければならない。

彼らの主張のような「一見もっともである」主張に対して十分な考えを元に判断を下すのが文明に参画する義務であると思う。