意志の差別と行為の差別

一時期、ネトウヨ的な考え方に染まっていた時期があり、まぁその時期は差別的感情をブチ負けまくっていたのだが、最近(と言っても10年ぐらいは経ったと思う)はリベラルな人間となり、差別に対しては闘う心づもりでいるようになった。

 

このブログのように、SNSを通じて自分の考えを発信できるようになり、私のような反差別のポリシーを持つ人間も色々な意見を展開している。

ところが、この世には我々のような人間、特にフェミニストと呼ばれる人に対して敵意のような感情を持っている人が少なくない数存在しているように見受けられる。

こういった人たちが我々を攻撃する常套手段となっている方法がある。

 

それは、我々が見解を発信する中に混ざっていた差別的言動(例えば、ツイッターで”男性差別的な”ツイートをした時など)にその点を攻撃するのだ。

「コイツは差別的ツイートをしている。だからコイツはダメなやつだ」というように。

(彼らの目的が「差別を肯定すること」なら、そもそも攻撃が成立しないし、「敵を叩くこと」が目的だとしても自身を叩くことにつながるのが不思議なところだが・・・)

 

いずれにせよ「差別と闘うことを標榜している人間が差別的な言動をとった」ということは社会的批判に晒されやすい土壌にあるということだ(日本だけなのかはわからない。ただ、自分の狭い見識の中ではあるが世界的な土壌のようにも思える)。

 

このことについて考えてみるにあたって、そもそも「差別と闘う」とは何を指しているかを考えなければならない。

ナイーブに考えれば、単に「差別的な言動を行わない」というものになるだろう。しかし、これこそが罠なのだと思う。

私を含め、差別と闘うことを決めたとき、その人間はこの世/社会に内在されている差別を全て網羅的に把握しているかというと、当然そうではないはずだ。

そうである以上「それが差別であるとは知らなかった」という事態は必ず発生する。

よって、「知らず知らずのうちに差別的な言動をしてしまった」ということは十分にあり得る状態である。

この時に差別と闘う人間の価値は減るか、という問題だ。

人間は思考する能力を持つわけだから、この時に「なるほど、これで悲しむ人がいるのだな。」と”認識”し、”繰り返さない”ように出来るはずである。

 

差別と闘うというのはこの「姿勢」を指す表現なのだ。

 

産まれたときから社会に晒され、無意識のうちに刷り込まれた感情に対してある瞬間を境にそれらを全て知覚するのは人間に要求できるレベルのものではない。

だからこそ、重要視されるのはその姿勢であって、言動そのものではない。

(もちろん、一度「差別と理解した」行為を繰り返してはならない。それは言動から姿勢が否定されるからである。)

 

そうやって、一つ一つ「コレによって悲しむ人がいる」ということを知っていき、それを行わないように自信を律することこそが「闘う」ということである。

 

差別主義者が批判されるのは「それを差別と知ったうえで繰り返す」からである。

(あと、差別主義者がよく言う「学校で非差別階級を教えることこそが差別が残る原因」という論もあほらしいと思う。なぜなら「それが差別であることを知る」ということが差別を排除するスタートだからである)