未来の幸福は現在の苦痛を肯定するか

最近、テレビで”ドッキリ”があるたびに「仕掛けられた芸能人が可哀想」という

意見をちらほらと聞くようになった

 

私自身がそういった方向の感性を持っているので「類は友を呼ぶ」と言われても仕方がないかもしれないが、そういった感性が出てくるのが既存のメディアとは異なる

ソーシャルメディアの優れたところだろう。

 

こういった「可哀想」という言説に対するカウンターとして「彼らは仕事だから」「本人はおいしいと思っている」というものがある

私は、何もテレビで出演者に対して行われる一般にはひどいと言われる行為全てを否定するわけではない(それでも、否定したい範囲は相当に広いのだが)。

ただ、どうしてもこの”ドッキリ”という企画を肯定する気になれないのだ。

 

ドッキリにあった瞬間、彼らはどういった感情を持っただろう。

不安、焦燥、恐怖、畏怖、いずれにしても我々が文明社会を形成する上でこの世から追放しよう、決別しようと願った感情であったはずだ。

そういった感情がたとえ「未来の幸福で打ち消される」という過程を認めた上であったとしても、その瞬間にそういった感情が世界に出現し、それが意図的に発生させられたものだということに対して声を挙げて戦っていかないといけないのだ。