自動車保険とロリコン

例えば、ロリコン保険というものがあったとしよう。

ロリコンが犯罪を犯した時、加害者がロリコン保険に入っていたら、被害者に一定のお金を渡します。ロリコンはこの保険に入ってください」

と、言うものだ。

もし、こんな保険が現れたら社会的な非難は想像できないほど大きなものになるだろう。

だが、実際にはこれとほとんど同じことが自動車に対して行われている。

あるいはコンニャクゼリーに関する規制に際して「じゃぁお餅はどうなんだ」というカウンター的言説がネット上で流行したこともあった。

 

ある何かが社会的に容認されているのに、それと同質の(と、彼らは訴えている)ものが容認されないのはなぜだという疑問だ。

 

少し話を別軸に移す。

過労死や事故などで企業と個人の間で裁判となった時に企業経営者の責任を問う時に「予見可能性」が焦点になることは少なくない。

「こういった事故が発生する可能性は十分考えられたのに、それに対する対策を怠った経営陣には責任がある」

というものだ。

 

これは当然自動車事故においても同様である。

ある事故が起こった時、結果が同じでも「信号無視をしていた」場合と「信号を守っていた場合」では量刑に差異が出るのはよくある話だし、我々はそういった裁判の結果を受け入れている。

信号無視をしていた場合の裁判官側の論としては「信号無視をしたということは、当然こういった(人が死ぬ)結果が生じる可能性があることを知っていたはずだ(にもかかわらずそういった行為をしたのは許せない)」というものだろう。

もう少し私の持っていきたい方向に則した表現を使うならば

「信号無視をするということは人が死ぬという結果を受け入れる”覚悟”があったはず。覚悟していたなら罪を受け入れなさい」

ということだろう。

 

この「覚悟」というものが、この問題の重要なポイント(と、私は主張したい)である。

自動車事故、あるいは自動車に関わる種々の事物を眺めると、そこには

「自動車を運転する以上、人を殺してしまう可能性は付きまとう。それを覚悟して自動車を使いなさい」という考えが至る所に現れる。

ただ、実際にはどうだろう。

我々は自動車に乗るとき、自動車を買う時、運転免許を取得するとき、

それほどの覚悟をもって行動しているだろうか。

おそらく、していない。

 

ここが自動車保険の意味なのであろう。

 

「自動車に乗るとき、人間は覚悟しなければならない」というルールは必要だ。

しかし、そんなルールは到底守り切ることはできない。

だから、覚悟が足りない人はお金を払うことで覚悟を持つこととしましょう。

(しかも、実際に何かが起こったら補償をしますよ)。

 

と、言うものだ。

では、足りない覚悟は誰が背負うのか。

一次的には保険会社だろう。しかし、保険会社のビジネスを成り立たせているのは大勢の人間が保険に加入することによる平均化である。

それを考えると、このようには言えないだろうか。

 

自動車を運転することによって発生する事故に相当する覚悟を個人が負うことはできないが、社会全体では負うことが出来る。

自動車を運転している人間全員が持つ覚悟の総和は、自動車によってもたらされる被害に対して必要な覚悟の総量を上回っている。

 

こう考えると徐々に冒頭の疑問の解決に近づいていくこととなる。

つまり、「被害をもたらす物に関係する人間の覚悟の総和が、それによってもたらされる被害に必要な覚悟の総和を上回る」時に初めてそれは社会に容認されるというものだ。

 

冒頭のロリコンについて置き換えれば

ロリコンが引き起こす被害とロリコンの持つ覚悟の総和がつりあっていない」

と、言うものだ。

別に僕自身がロリコンを差別するとか、軽蔑しているというわけではなく現時点の社会のコンセンサスとして、(善悪とは別に)上記のコンセンサスがあるというだけの事である。

コンニャクゼリーについても「コンニャクゼリーの関係者に覚悟が少ない」と社会的に判断されているということに過ぎない。

これは、個々人の覚悟の量ではなく、覚悟の総和である。したがって、コンニャクゼリーの関係者とお餅の関係者では前者が圧倒的に少ないために総和が少なくなる。

 

ここで出てくる当然の疑問は、「コンニャクゼリーの被害者はお餅の被害者よりも少ないため、必要な覚悟の総和は少ないはずである。」

と、言うものである。

私が考えるに、社会が要求する覚悟の総和は被害に比例せず、対数関数のような物になるのではなかろうか。(1000人死んだ次の年に1005人が死ぬことより、1人だけ死んだ次の年に6人が死ぬことの方が問題になるように)

いわば限界効用に近い考え方が生じているのは何故なのか。

 

コレを書き出すとただでさえダラダラと無思慮に書き連ねている駄文がクソの塊になってしまうので、また機会があれば考えてみることにする。

 

今回書いたことは、結局のところ

「同じ割合でデメリットが発生しても多数派なら容認されやすい」という当たり前のことをややこしく書いただけである。