お腹に300泊という言葉

アイマス界隈で新たに生み出された言葉に「おなかに300泊したい」という言葉がある。

この言葉はツイッターパワーワードとしてもてはやされ一躍我々オタク界隈で取り扱われる言葉となった。

しかしながら、この言葉は当然、自身の内奥から萌芽した感情ではなく

「こういった言葉を使うとウケるだろうなぁ」という部分から生み出された言葉である

 

いわば「大喜利」の産物なのだ

 

大喜利」の産物自体を否定するわけではないし、大喜利の上で素晴らしいものを生み出したのであればそれは称賛に価する。

 

しかし、しかしだ、「大喜利」が行われるという事態はどういった事態なのだろうか。

ここではニコニコ動画に焦点を当てるが、ニコニコ動画で絶えず大喜利が行われているコンテンツとは何か。

 

あまり大きな声で言いたかないが「真夏の夜の淫夢」のコンテンツがその典型だろう。

このコンテンツの特徴を考えると「いわゆる素材というものの供給が非常に先細りつつある」ということだ。

アイマスはどうだろう。

大喜利が行われ、もてはやされるということは公式サイドのコンテンツの提供力の低下ではなかろうか

コンテンツそのものよりも、それによって生み出されるものが注目されるというのは、それが刹那的/単発的であるならともかく、継続的な状況であることがコンテンツの先細りを示していることは否定しようがない。

もちろん、実際にアイマスのゲームをする、ライブに行くといった「コンテンツの真っ只中に居る人達」にとってはそういった「パワーワード」によって与えられるものよりも、公式的に与えられるコンテンツの方が大きいだろう。

だが、外部に居る人間はそうではない。ここで、もし真っ只中に居る彼らが外部に居る人間と「奴らは大喜利で喜んでるカス」という形で断崖を作るのであれば、それがコンテンツの死を意味するのだろう。

コンテンツが二次創作を飲み込んで内包することはコンテンツの死を迎えるリスクになりうるが、かといってその部分と断崖が出来ることもまたリスクになる

必要なのは許容で会って、排斥ではないのだ