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「土人」と「日本死ね」

最近、私の頭の中をぐるぐるしている二つの言葉について意見を書くことにした

 

少し古い話になるが、大阪府警の機動隊員が「土人」という差別的な発言を使ったことがニュースになった。

到底許されない話だし、この発言で深く傷ついた沖縄の方々と関係者の方の心を思うと胸が引き裂かれる思いがある。

この発言を行った機動隊員は「差別の意図はなかったという。」

また、そんな発言に対し鶴保庸介大臣が「土人発言を差別とは断言できない」という旨の発言が出てきた。この鶴保氏の発言は「"土人"という単語それ自体が差別的な単語というわけではなく、あくまでも当事者間の問題になる」という意を含んでいるものだ。

ここで考えてみたいのは鶴保氏の発言から出発する「差別とはあくまでも当事者間の問題なのか」という点だ。

この考え、認識を許容してしまったときに何が起きるのかを考えると、「差別かどうかは言葉を受けた側が「差別を受けた」と認識して初めて差別となる」ということを認めることに等しくなってしまう(鶴保氏の発言からは差別というものが「受け取った側の認識」を必要とすることが分かるが、「発言者の差別的な意図」を必要とするものかどうかが不明な点に注意)。

ここで問題となるのは「当事者以外が言葉を受け取った側が「差別を受けた」と認識しているかどうかは「差別を受けた側が声を上げる」ことでしか認識できない」という点になる。

 

ここまでを少し整理しよう。つまり、鶴保氏の発言から導かれる結論は

「差別とは、それを受けた側が「差別を受けた」と声を上げて初めて差別となる」

ということであり。「それまで外野は何も言うべきではない」ということだ。

 

これは差別というものに対する認識が甘すぎると言わざるを得ない。

なぜならば「誰もが簡単に声を上げられるわけではない」からだ。

差別をされる人達というのはほぼすべて社会におけるマイノリティである。

彼らにとって声を上げることが簡単なのだろうか。マジョリティによる暗黙の圧力によって彼らの発言が妨げられていないと本当に断言できるだろうか。

 

だからこそ、マジョリティである人達がマイノリティのために声を上げなければならないのだ。

 

次に、何日か前に流行語大賞となった「日本死ね」について考えてみる。

この「日本死ね」というワードに対してツイッター上で「死ねという単語で意見を出してはいけない」とか「死ねという単語を出したらどんな意見も共感できない」とか「死ねと言う単語を使う神経が信じられない」みたいなツイートをよく見かける。

本当に「死ね」という単語は不適切なのだろうか。

私はそうは思わない。なぜならこの「日本死ね」のブログを書いた方が行ったのは本質的には弱者の抵抗だからだ。

 

これは、先の「土人」発言の部分と重なる部分がある。先ほどの「土人」に関する議論について私が「”土人”という発言そのものが差別」とは言っていないことに気づいていただけただろうか。

先の項では意図的に書かなかったが、「土人」問題は「機動隊員と言う強者が沖縄の市民という弱者に対して差別的な言葉を投げた」という立場の差という構図を含んでいる。

そう考えると、同じ言葉でも誰が(強者or弱者)言ったかということが非常に重要な観点となるということになる。

鶴保氏の発言は明らかにこの視点が欠けていると思うし、「日本死ね」を叩いている人たちも同様だと思う。

社会的弱者は抵抗するときに手段を択ばない。なぜなら抵抗せずに環境を受け入れることは死を意味しているからだ。彼らの抵抗の手段に対して「そういった抵抗の仕方はダメだよ」などということ自体が彼らに対して暗黙に「死ね」と言っている様なものではないのだろうか。そしてそれは強者から弱者への「死ね」という言葉であり、到底許されないことだと思う。