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幸福とは何か

関東に来て約5年がたちそうになっている。

その間に色々あったが、なんだかんだで就職し、気が付けばクソみたいな業務システムの案件を1年半以上やっていた。

メンタルがぶっ壊れてから3年半、ずっと自問自答してきたことに「幸福とは何か」という部分がある。

5年前、まだそれなりに夢も希望もあったころ、漠然とというか根拠のない確信めいた部分で「大学を出て、院にいって、研究者になって~」というものがあった。

それがあるきっかけでボロボロと崩れていったとき、人生の無価値さというものを強烈に意識した。

 

ただ単に「幸福に生きたい」それだけの小さな望みさえ無理なんだと強く考えていた時期があった(多分1年以上ずっと考えていたと思う)

 

その時期に気づいたのは「幸福に生きるには自分にとっての幸福を定義しなければならない」ということだ。

しかし、私は性格上「自分の中の思想/信条に対して何度も何度もその正当性を自問自答してしまう」という難点があった。

この難点のために、一見それらしい幸福を定義しても(例えば「結婚して家庭をもって~」とか)そこにある矛盾点などを必要以上に掘り起こし否定してしまっていたのだ。

そのため、メンタルがぶっ壊れてからずっと長い間「幸福」というものについて自分が求めることが見えなくなっていた。

自分の思想/信条に対する自問自答というのは必要な行為ではあるが、そこでの自問自答の多くは他の思想/信条に対する防護壁のようなものでもある。つまり、自分の思想/信条を確たるものとし、安易に他人の言葉に流されないようにするための物であるという性格を持つ。

しかしながら、思想というのは、空虚であることがもっとも良くない事であり、ないよりはあった方がいいというものであるという部分も否定はできない。

なので、自問自答によって見つけ出した幸福を捨て続けて空虚になり何の幸福の充足も得られない日々が続いていた。

転機と言うほどでもないが、今年の4月に人事異動があり、役職をいただくことになった。

正式に4名の部下を持つことになり、彼らの管理をする中で、一つの発見をした

「自分にとっての幸福とは人間としての役割を果たす事である」

「人間の役割は、死ぬまでにこの世界の幸福の総和を増やす事である」

この発見だけではまだ幸福の定義とはなっていないが、それでも「何をするべきか」という部分が見えたのは私にとっては救いであった。

私の悪癖の自問自答もまだこの考えを否定するだけの物には至っていない。

もしかしたら明日あたりにこの考えが否定されるかもしれない。

ただ、少なくとも否定されるまではこの考えにすがって生きてみるつもりだ

意味

この世界の片隅に」という映画がツイッター上で話題になっていた。

戦争というものに関わる映画らしく、それをみて「先の戦争の意味」というのを考えていたのだが、むしろ「意味」という単語についての興味がより深くなった。

 

「意味」という単語、それ自体が単純に指す概念自体に難点はない(と感じているだけで、実際は私の考え以上に複雑なのかもしれない)が、例えば子を失った親が言う「あの子の生きてきた意味」というような用法における「意味」という単語はどのような性質を持つのだろう。

 

この用法で使われる「意味」という単語は「何か失ったもの」というものの対比として使用されている。そして、その失うに至った経緯に非常に密接に関係していることは明らかだ。

 

多くの場合、一見するとこの対比から暗黙的に表される感情として「後悔」の感情があるように思える。

「何かを失った。誰かを失った。それを防げなかったのだろうか。」という感情だ。

しかし、「意味」という単語が使用されるとき、の失った事実を糧として何かを得ようという心の慟哭が垣間見えるのは私だけではないと思う。

つまり「意味が無かったこととならないように、コレからの時間を過ごそう」という前向きな意志だ。

 

非常に人間らしさに溢れていてよいと思う。

 

ここまで考えて、少し面白いなと思ったのは「意味があるということが無条件で善/良とされている」ことだ。

なぜ意味があることが無条件で肯定されるのだろうか。

誰か教えてください。

「土人」と「日本死ね」

最近、私の頭の中をぐるぐるしている二つの言葉について意見を書くことにした

 

少し古い話になるが、大阪府警の機動隊員が「土人」という差別的な発言を使ったことがニュースになった。

到底許されない話だし、この発言で深く傷ついた沖縄の方々と関係者の方の心を思うと胸が引き裂かれる思いがある。

この発言を行った機動隊員は「差別の意図はなかったという。」

また、そんな発言に対し鶴保庸介大臣が「土人発言を差別とは断言できない」という旨の発言が出てきた。この鶴保氏の発言は「"土人"という単語それ自体が差別的な単語というわけではなく、あくまでも当事者間の問題になる」という意を含んでいるものだ。

ここで考えてみたいのは鶴保氏の発言から出発する「差別とはあくまでも当事者間の問題なのか」という点だ。

この考え、認識を許容してしまったときに何が起きるのかを考えると、「差別かどうかは言葉を受けた側が「差別を受けた」と認識して初めて差別となる」ということを認めることに等しくなってしまう(鶴保氏の発言からは差別というものが「受け取った側の認識」を必要とすることが分かるが、「発言者の差別的な意図」を必要とするものかどうかが不明な点に注意)。

ここで問題となるのは「当事者以外が言葉を受け取った側が「差別を受けた」と認識しているかどうかは「差別を受けた側が声を上げる」ことでしか認識できない」という点になる。

 

ここまでを少し整理しよう。つまり、鶴保氏の発言から導かれる結論は

「差別とは、それを受けた側が「差別を受けた」と声を上げて初めて差別となる」

ということであり。「それまで外野は何も言うべきではない」ということだ。

 

これは差別というものに対する認識が甘すぎると言わざるを得ない。

なぜならば「誰もが簡単に声を上げられるわけではない」からだ。

差別をされる人達というのはほぼすべて社会におけるマイノリティである。

彼らにとって声を上げることが簡単なのだろうか。マジョリティによる暗黙の圧力によって彼らの発言が妨げられていないと本当に断言できるだろうか。

 

だからこそ、マジョリティである人達がマイノリティのために声を上げなければならないのだ。

 

次に、何日か前に流行語大賞となった「日本死ね」について考えてみる。

この「日本死ね」というワードに対してツイッター上で「死ねという単語で意見を出してはいけない」とか「死ねという単語を出したらどんな意見も共感できない」とか「死ねと言う単語を使う神経が信じられない」みたいなツイートをよく見かける。

本当に「死ね」という単語は不適切なのだろうか。

私はそうは思わない。なぜならこの「日本死ね」のブログを書いた方が行ったのは本質的には弱者の抵抗だからだ。

 

これは、先の「土人」発言の部分と重なる部分がある。先ほどの「土人」に関する議論について私が「”土人”という発言そのものが差別」とは言っていないことに気づいていただけただろうか。

先の項では意図的に書かなかったが、「土人」問題は「機動隊員と言う強者が沖縄の市民という弱者に対して差別的な言葉を投げた」という立場の差という構図を含んでいる。

そう考えると、同じ言葉でも誰が(強者or弱者)言ったかということが非常に重要な観点となるということになる。

鶴保氏の発言は明らかにこの視点が欠けていると思うし、「日本死ね」を叩いている人たちも同様だと思う。

社会的弱者は抵抗するときに手段を択ばない。なぜなら抵抗せずに環境を受け入れることは死を意味しているからだ。彼らの抵抗の手段に対して「そういった抵抗の仕方はダメだよ」などということ自体が彼らに対して暗黙に「死ね」と言っている様なものではないのだろうか。そしてそれは強者から弱者への「死ね」という言葉であり、到底許されないことだと思う。