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業は観念か事実か

人間は業を負って生きているという話は別に仏教徒だとかキリスト教徒だとか、そんな事には関係なく、日本の(あるいは世界中の)無数にある共通認識の一つとして存在していると思っている(それが業という言葉でないにせよ)。

 

さて、この「業」であるが、「洗われる」という単語とセットで表現されることがある。

 

人間が罪を犯し、罰を受け、罰(と、それに伴って萌芽されるいわゆる「反省」だとか「更生」というもの)によって、その「業」が洗われるという考え方だ。

 

ここで、考えなければならないのは「罪を償った」ということは「事実を無かったことにした」ということではない。

殺人の対象者は依然生き返らないし、壊れた者は戻らない。なのに洗われてしまうものが「業」なのだ(別に、人を殺すことに限らず、動物を殺して食べるという観点でも別に同じようなことが言える)。

さらに考えてみればはだしのゲンで中岡君が言っていた「一人殺せば犯罪者、100人殺せば英雄だ」という言葉(当然、前者は平時の行為を指し、後者は戦争中の敵国人に対する行為を指す)を考えてみても同じ行為/結果/事実に対して同一の業が付与されるわけではない。

つまり、業は事実に付与されるのでもなく、事実そのものでもない

 

では、何か?

 

今回のテーマのタイトルにもあるが、観念に属するものだろう。(それは容易にわかることだが、あえて強調する)

では、どういった観念なのかということが問題だ

先ほど述べた「罰を受ける」ということが非常に重要なポイントとなる。

「罰」とは社会的に与えられるものだ。もちろん、例えば親子間でも罰を与える/受けるという構図はあるが、それも小さな社会という枠組みに入る(あるいは「組織」と置き換えても良いかもしれない)

つまり、業に対する罰は社会から受けるものであり、それが業であるかどうかの根拠は社会からの応答に依存する(社会がそれを罰するべきだと考えれば、それは業である)

つまり、社会は業を浄化する(これまでの表現で言えば洗い流す)スキームを持っているということになる。時には当人の死をもって洗い流させることになるわけだが・・・

だからこそ「自首」という行為が成立する(自身の業を浄化するために、社会の持つ浄化スキームを利用する)。

 

ここまでで、業は社会が定義し、業を浄化するスキームを社会は持ち、個人がそのスキームを利用する(あるいはそれをもって強制的に業を浄化する)という構図が見えてきた。

では、業に対応した「事実」はどうなるのだろうか。先に業の浄化は事実の消去を意味しないことを述べたが、この事実は誰がその被害あるいは損失を被るのかということについて考えなければならない。

一つの合理的な考えとしては、これもまた社会が負うという考えだろう

実際に、犯罪被害者への支援体制というものが社会に置かれているということもコレを補強するだろう

では、なぜ社会はここまでお人好しなのだろう。

人を殺したというのは一つの究極点ではあるが、それ以外であっても、それによる損失を社会が負ったり社会がその業(社会自らが定義しているとはいえ)の浄化スキームを提供するのだろうか。

 

その一つの答えとして、親鸞の言葉に「わが心の良くて殺さぬにはあらず」という言葉がある。

つまり、我々は単に人を殺すという心の扉を(自分に限らず、他の何かに)解放させられなかった(そういった瞬間が訪れなかった)幸運な者ということだ。

業は社会が定義するとはいえ、人間は社会に問いかけなければならないから、業を負わなければならない(卵が先か鶏が先かという形の議論になってしまうが・・・)。

人間はそれを本質的に知っているのであろう。

だから、自分の心の扉が不運にも開かれたときにそれを他の人と力を合わせて救いあげるスキームを求めて、実装したのだ。

レジでの順番待ち

こんなツイートを見た

 

 

別に差別の話がしたいわけではなく、「順番」というワードで思ったことがあるので書いてみる

 

スーパーのレジで目の前にいる人がカゴいっぱいの商品の精算をしていて、当時間がかかりそうだ。

一方、自分の手にはアイスクリーム1個

 

こんな状況に出くわしたことは無いだろうか。こういったとき、多くの人は「代わってほしいなぁ」とか、あるいはカゴいっぱいの商品を持っている側で「先にどうぞ」と譲った経験はないだろうか

 

さて、このような考えに思いを馳せたとき、少々考えなければならないことがある。

それは、「レジの精算の順番は”並んだ順番”であって、手に持っている商品の量で決まるわけではない」ということだ。

 

こういったとき、少数の商品側を優先すべきという考えを持つ側の人が、その考えの合理性を指し示す根拠として「少量の人から順にやれば、”待ち時間の総計”は減少する」ということを言うだろう。

しかし、これは「2人の人が5分間ずつ待つことと1人の人が10分待つことを等価とみなす」考えであり、勝手に決めたモデルケースでしかない。

あるいは、別のモデルケースであったとしても、「複数人の幸福を一人の幸福と交換可能なものとして扱っていることは間違いない

 

少し話がとびとびになっているような気もするが、要するに「二者間の幸福は交換可能なものなのか」という問いに答える必要があるということだろう。

 

と、ここまで書いたが、なんだか考えがまとまらないので、まとまったら書き直そう

 

お腹に300泊という言葉

アイマス界隈で新たに生み出された言葉に「おなかに300泊したい」という言葉がある。

この言葉はツイッターパワーワードとしてもてはやされ一躍我々オタク界隈で取り扱われる言葉となった。

しかしながら、この言葉は当然、自身の内奥から萌芽した感情ではなく

「こういった言葉を使うとウケるだろうなぁ」という部分から生み出された言葉である

 

いわば「大喜利」の産物なのだ

 

大喜利」の産物自体を否定するわけではないし、大喜利の上で素晴らしいものを生み出したのであればそれは称賛に価する。

 

しかし、しかしだ、「大喜利」が行われるという事態はどういった事態なのだろうか。

ここではニコニコ動画に焦点を当てるが、ニコニコ動画で絶えず大喜利が行われているコンテンツとは何か。

 

あまり大きな声で言いたかないが「真夏の夜の淫夢」のコンテンツがその典型だろう。

このコンテンツの特徴を考えると「いわゆる素材というものの供給が非常に先細りつつある」ということだ。

アイマスはどうだろう。

大喜利が行われ、もてはやされるということは公式サイドのコンテンツの提供力の低下ではなかろうか

コンテンツそのものよりも、それによって生み出されるものが注目されるというのは、それが刹那的/単発的であるならともかく、継続的な状況であることがコンテンツの先細りを示していることは否定しようがない。

もちろん、実際にアイマスのゲームをする、ライブに行くといった「コンテンツの真っ只中に居る人達」にとってはそういった「パワーワード」によって与えられるものよりも、公式的に与えられるコンテンツの方が大きいだろう。

だが、外部に居る人間はそうではない。ここで、もし真っ只中に居る彼らが外部に居る人間と「奴らは大喜利で喜んでるカス」という形で断崖を作るのであれば、それがコンテンツの死を意味するのだろう。

コンテンツが二次創作を飲み込んで内包することはコンテンツの死を迎えるリスクになりうるが、かといってその部分と断崖が出来ることもまたリスクになる

必要なのは許容で会って、排斥ではないのだ

 

 

 

セクシャリティ

自分のセクシャリティが分からない時がある

女になった自分がキモオタにめちゃくちゃされている瞬間を想像して興奮するような人間だからだ

女の子は好きだ、ただ「男」という存在に対して自分との間にどのようなものがあるのかが見えていない

 

と、言う風に1週間ぐらい前まで思ってたのだけれども、少しそれが分かったような感じのひらめきがあった

 

私が18歳ぐらいの頃、友人のA君が居た。A君はBさんの事が好きで、その話を聞いていくうちに僕もBさんのことが好きになって行った。

まぁこれなら普通の高校生ぐらいの年齢ならよくある話だ

その後、A君とBさんが付き合うことになったが、自分自身はそのこと自体に特に悲しみを負わなかったのを覚えている。

A君とはその後も普通に遊んでたし、Bさんには全く興味が無くなった。

僕が好きだったのはBさんではなくA君だったのだろう

そういう可能性がピンと思い付き、むしろそちらの方が自然な感情に思えた。

 

単に二分化された性別が選択肢として挙げられ、どちらとセックスがしたいと問われれば、「女」を選ぶとは思うが、実際のセクシャリティはそこまで単純化されていない。

 

ついこの間、ふとしたきっかけに「円周状の性」という単語が思い浮かび、それの指す意味を色々と試してみたが、「連続した性」とでもいうべき定義が妥当なのだろうと感じた。

 

この円周上にあるちっぽけな自分しかいない点の上でパートナーを探さないといけないのだろう。

 

何の何?

竹下アン絵里奈でぶりでぶカテリーナ と言えば、有名な天才えりちゃんシリーズの主人公だ

ばかばかしい名前だが、その響きは心地よい。ベストセラーの遠因になったといえよう。

 

この天才えりちゃんシリーズに「天才えりちゃん金魚を食べた」という話が有る。映像化もされ、図書館にビデオがあったので、借りてきて見た覚えがある。

そこで、えりちゃんのお兄ちゃんが「ハンドパワー ゴールドフィーシュ!」と叫ぶシーンがある。

今から思い出すと安直だなぁとほのぼのしていたのだが、ふと気になることがあった。

 

ゴールドフィッシュ、ゴールドとフィッシュだ。それに間違いはない。「金魚」の意なのだから、きっとルーツが同じなのだろう。

だが、本題はここではない。

そう、まさしくゴールドとフィッシュ。これが問題だ。

 

ゴールドフィッシュという単語を聞いたときに、無意識的に「ゴールド」と「フィッシュ」に分解してしまう自分がいる。ゴールドフィッシュとはゴールドなフィッシュなのだ。

しかし、金魚はそうではない。金の魚ではなく、そのまま「金魚」なのだ。分解はされない。

日本の人だから日本人。秋田犬は秋田の犬。松坂牛は松坂の牛だし、梅のお酒だから梅酒だ。

 

そう、分解されうるのだ。大半の場合。でも、なぜか金魚は違う。

奇妙なことにゴールドフィッシュは分解されるのに。

 

この不思議な感覚を楽しんでいたら「柴犬」という単語にぶつかり、より謎が深まってしまった、

 

悪人を断罪する武器を研ぐ人たち

昨今の過剰なまでの生活保護バッシングなどを考えるときに、「社会保障制度の悪用をただす存在」を意識しないというのは無理なものがあると思う。

 

彼らにとって悪人は裁きの対象であり、攻撃されて当然の存在というものなのだろう。

 

月並みな前置きを言うことになってしまうが、社会保障制度の悪用自体は裁きの対象となるという点については同意しよう(社会保障制度の設計の良し悪しは置いておくとして)

ただ、そこで私が感じるのが「あなたの定義する悪人を攻撃する刃は善良なものを傷つけないか」という点だ

そして、その「悪人の定義」は誤っていないだろうか

というものだ

 

世の中に不正はたくさんある。悪も悪意もたくさんある。

問題はそれらがある一つの線を境に裁きの対象となるかどうかが分かれるわけではないことだ。

そしてまた困ったことに、「一つの線を境に明暗を分けることが出来る」と考えている人の持つ境界線が同一のものではないということだ

この意に対して法という線引きがあるのではないかと反論が来るだろうが、であるならば、粛々と裁判の経過を支持すればいいだけで、個人やたかだか行政府の人間がバッシングに対して積極的な参与を行う必要はまったくもってないはずなのだ。

 

不正や悪意は「どの程度か」というグラデーションでしか測れない、であるならば我々が用意すべき武器は「一定のラインを超えた人を確実に殺す武器」ではなく「不正の程度に応じた大きさのダメージを与えられる武器」であることは明白だ

 

本来ならばそれは政治家の仕事なのだが、まぁこの国というかこの政権の人間には土台無理な話だろうし、ヒステリーな感情論に右往左往させられる国民性では私が生きている間にそのような状態を迎えることが出来るのだろうかと、悲観的になってしまうより選択肢はないのであった

馬鹿を見る

正直者が馬鹿を見るという言葉がある。

なぜ正直者が馬鹿を見るのだろうか。その一つの理由を「この世が資本主義だから」という点に求めるのは誤りではないだろうと思う。

 

資本主義は非常によくできた原理で、その中でも特に素晴らしいのは「否応なしに発生する競争」にある。

資本を得る(資本主義社会で生き残るため)には競争を行わなければならないからだ。

この競争力(とそれに伴う技術(≒軍事力))の前に多くの社会体制が崩れ去って行った。

その結果、この世のルールは資本のルールに基づくものとなってしまい、善悪のルールが成立しなくなってしまったのだ。

 

善人至上主義という社会体制を我々が得るよりも前に、それを打ち負かす資本主義が台頭してしまった。

どちらが優れているというわけではなく、善人至上主義がグーなら資本主義がパーだっただけなのだが、相性として資本主義には勝てないのだ。

 

この不利な戦いの中で我々が選べるのは、資本のルールを利用して倫理の問題を解決するという手段でしかない。

つまり、倫理に欠けた行動に罰を与えるほかないわけである。

これには国家という枠組みが必要なのは明白なのだが日本では社会と国家を同一視する傾向が強いというものがある。

社会は資本主義に敗れ、その性質に染まってしまったのだから、コレを同一視していてはいつまでたっても解決しないのに