ただただ許したい

自分が何になりたいかと問われれば、それはもうガンディーだろう。

 

「非暴力・不服従」に代表される彼の活動についての評価はここで行うまでもないとして、彼が暗殺されるときに額に手を当て相手を許したという逸話が私の心をつかんで離さないのだ。

 

実際のその瞬間に私は立ち会っていない(そもそも生まれてすらいない)から多分に後世における「盛り」の可能性を受け入れつつ、彼の精神に敬意を払おうと思う。

 

そもそも、なぜ私が「許し」に執着するかというと、この世からすべての苦悩を消し去りたいからである。(もちろん、仏教における一切皆苦という言葉を考えると実際には不可能であると断じてもよいのだが、できるだけそこに近づきたいという気持ちがあるからである。)

世界には多くの苦悩があり、「許す」という行為は「罪悪の苦悩」と「加害の苦悩」からの解放を指す。

これらの苦悩がない世界では人間は他者への愛を忘れ罪悪と加害に走ってしまうという問題があり、人間の妥協点としてこの2つの苦悩を受け入れざるを得ないということは論理的にはわかるし、否定はしない。

問題は、他の苦悩は多くの人がその苦悩を持った人たちの救済に動くのにたいしてこれら2つの苦悩からの救済を行う人は少なく、その苦悩を(時には生涯にわたって)負い続けることを要求する場合すらあることだ。

この世には多くの優しい人がいるのだから、私一人ぐらいこの2つの苦悩に対して救済を行う立場になっても不公平ではなかろう。

 

 

さて、ドラマでよくある(と、されている)セリフの「世界中があなたの敵になっても・・・」というセリフに近い意味合いの言葉を投げかけることで「自分が被害者でなくとも」一定の許すという妥当性を付与することができることを考えれば、ただ単に「許す」という目的を達成するのであれば、刑務所を巡って「あなたを許します」と声をかけていけば良いだろう。

しかし、そんな単純なものでは無い。

 

私が「許す」という行為に対して苦慮していることは、「許す」という行為が権力性帯びているということに起因している。

許すという行為は被害者だけでなく、その加害者当人を除くすべての人間が可能であるということは前段で示したが、裏を返せば当人は決して自分自身を許すことはできないことを指している(自己の失敗に起因する場合は除く)。

「許しを乞う」という表現は決して偶然に生まれた表現ではなく、まさに乞うことしかできない圧倒的な権力の差を見事に表現している。

過去の歴史においても「免罪符」という形で教会が権力と財力を手にしたということも「許す」という行為に付随する権力性を証明しているだろう。

 

で、あれば、私の「許し」に対する執着が権力や財力に対する執着に起因しないということをどのようにして証明/保証できるだろうか。

差別が先か、教育が先か

イッタランドでこんなツイートが目に入った

 

この人だけをやり玉に挙げるというわけではないのだが、まぁ運が悪かったとでも思ってもらえたらと思う。

 

話を戻して、正直なところ21世紀になってから15年以上の年月が経つというのにいまだにこういった考えがある程度の支持(このツイートへのRTとfavすべてが賛同の意ではないにせよ、リプライツリーなどを見る限りでは相当割合の人間が賛同の意味で反応していると言えるだろう)を集めていることに教育の敗北を感じざるを得ないのだが、そうも言っていられないので、なぜこのような考えが誤りなのかを書きたいと思う。

 

第一に、「教育を行わなければ差別は風化するか」という問題がある。ハッキリ言ってしまえば、これは歴史的事実が明確に否定している。

差別が治世システムの中に明確に組み込まれ、公的/事実的に容認されていた時代において、その教育(=何かしらの差別。とくに特定の地域や職業あるいはその組み合わせに対する部落差別の伝播)が明確に行われていなかったにもかかわらず、今日にわたってさえいまだにそれらの差別が残っている。

彼らの唱える「差別教育による差別の解消の妨げ」論を大いに譲るとしても、同和対策事業特別措置法の成立前後に端を発する同和教育(この語が現代において問題を含んでいることは承知の上で、当時の語を用いる)が開始される段階において(つまり、

彼らの主張する「差別の教育が無かった時代」)も連綿と部落差別が続いてきたことを踏まえれば、このような主張は一笑に付されるものだと言えるだろう。

 

第二に、「差別は自然発生しないか?」という問いへの解を考える必要がある。

ここで、差別の原因について「自然発生説」と「人為発生説」を考えてみることとする。

もし、「差別が自然発生するもの」であるならば、彼らの主張する「教育を行わなければ差別は生じない」という主張は誤りだと断ずることができるだろう。

一方で「人為発生説」が正であるならば彼らの主張する内容にも一定の理があるように感ずることが出来る。

しかし、ここで注意しなければならないのは、この世の中に存在する(あるいは存在した)差別が自然発生したものと人為的に発生したものが混在する場合である。

もし、混在しているのであれば、それはすなわち「教育を行わなければ差別は生じない」という主張は誤りとなる(ただし、「教育を行わなければ差別は減少する」という点を否定できるものではない。「減少する」という主張自体も誤りではあるが、混在しているということのみから明確にそれを否定する論理の構築は難しいという意味。)

為政者にとって都合のいい形となるように作られた差別と言うものがこの世に存在している(あるいは存在していた)という点については否定はしないが、例えば世界中の広範な領域で「女性差別」というものが蔓延している/していたという事実を踏まえれば、それらの地域広範にわたって同一の政治的実力が支配していた史実が無いことと合わせて、自然的に発生する差別というものが存在している事を認めることが出きる。

 

上記2点を取ってみるだけでも

同和教育の無い時代にも差別は受け継がれていた

・差別は自然発生する

という部分から彼らの主張は明確に否定される。

 

ここからは蛇足部分ともいえるが、そもそも、なぜ差別あるいは差別的感情が発生するのかというと、それは人間の心の弱さに起因している。

他者への理解という点に対する恐怖/億劫/面倒くささと言った人間の心にある負の部分(負の部分全てを否定するわけではない。単にこれらの感情に起因しているというだけである)が差別と言うものを生み出し、そして固定化していく。

差別の克服/解消/解放というのは人間が本質的に持つ弱さとの向き合いであり、その向き合いを否定し、なくしてしまった場合、また差別が生まれてしまうことは容易に想像がつく。

 

普段から声を大にして言いたいことではあるのだが、

人間は文明の獲得とともに、「感情によって導いた結論」からは一定の距離を置くことに挑み続けているのであって、「感情を尊重しつつも、それが正しいのかどうかを問い続ける」ということを放棄してはならない。

 

少し話がそれるが、死刑賛成派の言う「でも、家族を殺されたら殺したくなるでしょ」という言に近しいものがあると思う。

「そのような感情になることは認めるが、そのような感情になることと実際にそのことを容認するのには大きな隔たりがある」

という表現にも代えることが出来る。

 

差別だって「でも、○○という人間は差別していいでしょ」という自然発生的な、もっというと当時の人間の「自然発生的な感情」に起因しているものなのだ。

当時はそれが「正常な感情」だったかもしれない。そして、過去には「感情に従って行動すること」が容認されていたのかもしれない。

しかし、その「正常な感情」に沿って「行動した結果」が差別につながっているのである。

 

差別が残る社会とは、感情と理性とを分離できていない社会であり、はっきり言って未熟な社会以外の何物でもない。文明を得ることを決め、文明を得ることを希求している

我々は現状の社会が未熟であることに対して自覚と恥を感じなければならない。

彼らの主張のような「一見もっともである」主張に対して十分な考えを元に判断を下すのが文明に参画する義務であると思う。

2択を2回行うと

ツイッタランドにこういったツイートが回って来た

 

 

まぁ、ざっくりいうと村本氏を批難するような形としてのツイートだ。

村本氏の考えに沿うと、中国から攻撃されたときに無抵抗に殺されるぞ!そんな考えはありなのか!という主張になる。

さて、このような会話は実は気が付きにくいトリックが含まれている。

今回はそれを書いていきたいと思う。

 

例えば、以下の2つの問に応えてみることを考える

1.あなたは肉が好きですか、魚が好きですか

2.あなたは松坂牛が好きですか

 

この2つの問いに対する解答を考えてみると、以下の4パターンが考えられる

A.肉のほうが好きで、松坂牛も好き

B.肉のほうが好きで、松坂牛は嫌い

C:魚の方が好きで、松坂牛は好き

D:魚の方が好きで、松坂牛は嫌い

 

この4パターンの解答を考えると、回答Bが非常に現実的でないことが分かると思う。

何故なら、肉が好きな人間は松坂牛が好きな蓋然性が高いからである。

すると、仮に肉と魚で勢力が拮抗していても、松坂牛が好きかどうかでは好きという言回答が多くを占めることは想像に難くない。

もちろん、松坂牛が好きな人間が大多数と言う結論を出すこと自体は問題ないが、

そのことをもって「肉が好きな人間が多い」と言う結論を出すことには大きな問題がある。

 

振り返って、今回の流れを2つの質問に分解する。

1.あなたは非武装中立を支持しますか

2.敵国からの侵略行為があった時に抵抗しますか、殺されますか

 

と言う2問になる。この時、1で非武装中立を支持しないといった人間は当然抵抗することに前提があるわけだから、2の質問に対しては抵抗するを選択するだろう。

一方で、1の質問で非武装中立を支持する人間は「抵抗の有無」については個々に考えが違うだろう(武装しないことと抵抗しないことは同値ではないため)

1の質問の回答が1:1で別れ、2の質問については支持する側のみ1:1で別れたと考えると、結果としては以下のような勢力図になる

A:非武装中立は指示せず、侵略行為には抵抗する→50%

B:非武装中立を支持し、侵略行為には抵抗する→25%

C:非武装中立は支持し、侵略行為には無抵抗→25%

 

この結果、侵略行為には抵抗するという側が優勢にはなるが、非武装中立については拮抗した勢力となる。

さて、今回のパターンを見てみると、侵略行為に対する抵抗の是非が非武装中立の賛否につながるかのような誘導を行っていることが分かる。

 

皆さんも、こういった2択については気を付けてください。

意志の差別と行為の差別

一時期、ネトウヨ的な考え方に染まっていた時期があり、まぁその時期は差別的感情をブチ負けまくっていたのだが、最近(と言っても10年ぐらいは経ったと思う)はリベラルな人間となり、差別に対しては闘う心づもりでいるようになった。

 

このブログのように、SNSを通じて自分の考えを発信できるようになり、私のような反差別のポリシーを持つ人間も色々な意見を展開している。

ところが、この世には我々のような人間、特にフェミニストと呼ばれる人に対して敵意のような感情を持っている人が少なくない数存在しているように見受けられる。

こういった人たちが我々を攻撃する常套手段となっている方法がある。

 

それは、我々が見解を発信する中に混ざっていた差別的言動(例えば、ツイッターで”男性差別的な”ツイートをした時など)にその点を攻撃するのだ。

「コイツは差別的ツイートをしている。だからコイツはダメなやつだ」というように。

(彼らの目的が「差別を肯定すること」なら、そもそも攻撃が成立しないし、「敵を叩くこと」が目的だとしても自身を叩くことにつながるのが不思議なところだが・・・)

 

いずれにせよ「差別と闘うことを標榜している人間が差別的な言動をとった」ということは社会的批判に晒されやすい土壌にあるということだ(日本だけなのかはわからない。ただ、自分の狭い見識の中ではあるが世界的な土壌のようにも思える)。

 

このことについて考えてみるにあたって、そもそも「差別と闘う」とは何を指しているかを考えなければならない。

ナイーブに考えれば、単に「差別的な言動を行わない」というものになるだろう。しかし、これこそが罠なのだと思う。

私を含め、差別と闘うことを決めたとき、その人間はこの世/社会に内在されている差別を全て網羅的に把握しているかというと、当然そうではないはずだ。

そうである以上「それが差別であるとは知らなかった」という事態は必ず発生する。

よって、「知らず知らずのうちに差別的な言動をしてしまった」ということは十分にあり得る状態である。

この時に差別と闘う人間の価値は減るか、という問題だ。

人間は思考する能力を持つわけだから、この時に「なるほど、これで悲しむ人がいるのだな。」と”認識”し、”繰り返さない”ように出来るはずである。

 

差別と闘うというのはこの「姿勢」を指す表現なのだ。

 

産まれたときから社会に晒され、無意識のうちに刷り込まれた感情に対してある瞬間を境にそれらを全て知覚するのは人間に要求できるレベルのものではない。

だからこそ、重要視されるのはその姿勢であって、言動そのものではない。

(もちろん、一度「差別と理解した」行為を繰り返してはならない。それは言動から姿勢が否定されるからである。)

 

そうやって、一つ一つ「コレによって悲しむ人がいる」ということを知っていき、それを行わないように自信を律することこそが「闘う」ということである。

 

差別主義者が批判されるのは「それを差別と知ったうえで繰り返す」からである。

(あと、差別主義者がよく言う「学校で非差別階級を教えることこそが差別が残る原因」という論もあほらしいと思う。なぜなら「それが差別であることを知る」ということが差別を排除するスタートだからである)

未来の幸福は現在の苦痛を肯定するか

最近、テレビで”ドッキリ”があるたびに「仕掛けられた芸能人が可哀想」という

意見をちらほらと聞くようになった

 

私自身がそういった方向の感性を持っているので「類は友を呼ぶ」と言われても仕方がないかもしれないが、そういった感性が出てくるのが既存のメディアとは異なる

ソーシャルメディアの優れたところだろう。

 

こういった「可哀想」という言説に対するカウンターとして「彼らは仕事だから」「本人はおいしいと思っている」というものがある

私は、何もテレビで出演者に対して行われる一般にはひどいと言われる行為全てを否定するわけではない(それでも、否定したい範囲は相当に広いのだが)。

ただ、どうしてもこの”ドッキリ”という企画を肯定する気になれないのだ。

 

ドッキリにあった瞬間、彼らはどういった感情を持っただろう。

不安、焦燥、恐怖、畏怖、いずれにしても我々が文明社会を形成する上でこの世から追放しよう、決別しようと願った感情であったはずだ。

そういった感情がたとえ「未来の幸福で打ち消される」という過程を認めた上であったとしても、その瞬間にそういった感情が世界に出現し、それが意図的に発生させられたものだということに対して声を挙げて戦っていかないといけないのだ。

 

平和憲法という仮面

バブル崩壊までの日本の戦後経済は、そのエコノミックアニマルの醜悪な顔を平和憲法という仮面で隠し続けてきた歴史とも言える。

戦後の自民党の政治家たちは良し悪しは別として、この仮面を非常に繊細かつ狡猾に利用してきた。いわゆる改憲派とされる政治家でさえ、この仮面の持つ国際的に絶大と言える効力を前にして改憲ではなく、共存を選んできたというのが実質と思う。

(自分のポジションを明確にする必要があるので記述するが、私は護憲派である。今回の記事はポジショントークと思っていただいても結構である。)

もちろん、護憲派改憲派のこの戦略(平和憲法という仮面を維持しつつ、実際にはその裁量部分を拡大し続けること)を見逃していたわけではない。少なくともこの仮面をかぶっている以上、「出来ない事」は歴然と存在するし、裁量部分の拡大速度も極めてゆっくりとしたものにならざるを得ないわけで、闘争の妥協点としては十分であった。

(この「出来ない事」というのは集団的自衛権だという風に護憲派は考えていたし、改憲派の中でもそれはアンタッチャブルな領域であったのだが、現実は厳しかった。「維持すること」がいかに難しいかということを如実に語っている)

さて、そういった護憲派改憲派の半ばプロレス染みた戦い(護憲派がジリジリとゆっくり下がって行く一方ではあったが)の様子が最近変わって来た。

先に挙げた集団的自衛権ということもそうであるが、現政権を節目として改憲論が大手を振って歩くようになったのだ。

これは、改憲派の台頭というよりも戦前の天皇主権であった大日本帝国的な統治を渇望する(私からすると一切共感できないが)いわば「懐古派」と呼ばれる人間の台頭と言ったほうがいいだろう。

なぜなら、改憲派が戦後70年近く採用し続けてきた「平和憲法の仮面を維持しつつ、実質的には色々出来るようにする」という戦略をぶち壊すものだからである。

もちろん、この戦略を取り続けてきた大きな存在として自民党があるわけなのだが、改憲派からすれば「俺たちがこれまで70年近く時間をかけてきたことをぶち壊しにしないでくれよ」という気分で満ち満ちているのだろう。

実際問題として、執行部の影響のない人間。つまり、自民党OBはこの懐古派の戦略について苦言を呈することが珍しくない。

だから彼らは解釈改憲には特段の不平を洩らさなかったにも関わらず(もちろん、時期尚早, もう少し時間をかけろ という意味での批判はあるが)、改憲そのものには苦言を吐き出すのだ。

このように、改憲派と懐古派は明確にその戦略が分かれる存在だが、昨今の情勢をみるに、改憲派と懐古派のどちらにも属するような人間が増えてきていると私は思えてならない。

本来、改憲派は社会情勢として日本が起こさなければいけないアクションを行うためという「手段としての改憲」であるのに対して、懐古派はまさしく懐古するための「目的としての改憲」であることを踏まえると、共闘は理解できるが、融合を理解するのは中々に困難である。

もし、将来的にこの「改憲派(改憲派+懐古派の派閥であるが、対外的には改憲派と総称されるもの)」の中で穏健派と過激派が出来上がった時、「穏健派」は「手段としての改憲」、「過激派」は「目的としての改憲」を考えているのではなかろうかと予言をして、この記事を終えようと思う。

 

自動車保険とロリコン

例えば、ロリコン保険というものがあったとしよう。

ロリコンが犯罪を犯した時、加害者がロリコン保険に入っていたら、被害者に一定のお金を渡します。ロリコンはこの保険に入ってください」

と、言うものだ。

もし、こんな保険が現れたら社会的な非難は想像できないほど大きなものになるだろう。

だが、実際にはこれとほとんど同じことが自動車に対して行われている。

あるいはコンニャクゼリーに関する規制に際して「じゃぁお餅はどうなんだ」というカウンター的言説がネット上で流行したこともあった。

 

ある何かが社会的に容認されているのに、それと同質の(と、彼らは訴えている)ものが容認されないのはなぜだという疑問だ。

 

少し話を別軸に移す。

過労死や事故などで企業と個人の間で裁判となった時に企業経営者の責任を問う時に「予見可能性」が焦点になることは少なくない。

「こういった事故が発生する可能性は十分考えられたのに、それに対する対策を怠った経営陣には責任がある」

というものだ。

 

これは当然自動車事故においても同様である。

ある事故が起こった時、結果が同じでも「信号無視をしていた」場合と「信号を守っていた場合」では量刑に差異が出るのはよくある話だし、我々はそういった裁判の結果を受け入れている。

信号無視をしていた場合の裁判官側の論としては「信号無視をしたということは、当然こういった(人が死ぬ)結果が生じる可能性があることを知っていたはずだ(にもかかわらずそういった行為をしたのは許せない)」というものだろう。

もう少し私の持っていきたい方向に則した表現を使うならば

「信号無視をするということは人が死ぬという結果を受け入れる”覚悟”があったはず。覚悟していたなら罪を受け入れなさい」

ということだろう。

 

この「覚悟」というものが、この問題の重要なポイント(と、私は主張したい)である。

自動車事故、あるいは自動車に関わる種々の事物を眺めると、そこには

「自動車を運転する以上、人を殺してしまう可能性は付きまとう。それを覚悟して自動車を使いなさい」という考えが至る所に現れる。

ただ、実際にはどうだろう。

我々は自動車に乗るとき、自動車を買う時、運転免許を取得するとき、

それほどの覚悟をもって行動しているだろうか。

おそらく、していない。

 

ここが自動車保険の意味なのであろう。

 

「自動車に乗るとき、人間は覚悟しなければならない」というルールは必要だ。

しかし、そんなルールは到底守り切ることはできない。

だから、覚悟が足りない人はお金を払うことで覚悟を持つこととしましょう。

(しかも、実際に何かが起こったら補償をしますよ)。

 

と、言うものだ。

では、足りない覚悟は誰が背負うのか。

一次的には保険会社だろう。しかし、保険会社のビジネスを成り立たせているのは大勢の人間が保険に加入することによる平均化である。

それを考えると、このようには言えないだろうか。

 

自動車を運転することによって発生する事故に相当する覚悟を個人が負うことはできないが、社会全体では負うことが出来る。

自動車を運転している人間全員が持つ覚悟の総和は、自動車によってもたらされる被害に対して必要な覚悟の総量を上回っている。

 

こう考えると徐々に冒頭の疑問の解決に近づいていくこととなる。

つまり、「被害をもたらす物に関係する人間の覚悟の総和が、それによってもたらされる被害に必要な覚悟の総和を上回る」時に初めてそれは社会に容認されるというものだ。

 

冒頭のロリコンについて置き換えれば

ロリコンが引き起こす被害とロリコンの持つ覚悟の総和がつりあっていない」

と、言うものだ。

別に僕自身がロリコンを差別するとか、軽蔑しているというわけではなく現時点の社会のコンセンサスとして、(善悪とは別に)上記のコンセンサスがあるというだけの事である。

コンニャクゼリーについても「コンニャクゼリーの関係者に覚悟が少ない」と社会的に判断されているということに過ぎない。

これは、個々人の覚悟の量ではなく、覚悟の総和である。したがって、コンニャクゼリーの関係者とお餅の関係者では前者が圧倒的に少ないために総和が少なくなる。

 

ここで出てくる当然の疑問は、「コンニャクゼリーの被害者はお餅の被害者よりも少ないため、必要な覚悟の総和は少ないはずである。」

と、言うものである。

私が考えるに、社会が要求する覚悟の総和は被害に比例せず、対数関数のような物になるのではなかろうか。(1000人死んだ次の年に1005人が死ぬことより、1人だけ死んだ次の年に6人が死ぬことの方が問題になるように)

いわば限界効用に近い考え方が生じているのは何故なのか。

 

コレを書き出すとただでさえダラダラと無思慮に書き連ねている駄文がクソの塊になってしまうので、また機会があれば考えてみることにする。

 

今回書いたことは、結局のところ

「同じ割合でデメリットが発生しても多数派なら容認されやすい」という当たり前のことをややこしく書いただけである。